鯨岡はその男、臼井に電話を掛け始めた。そして、軽く挨拶を交わしたあと、その電話機を斉藤に差し出す。
どうやら臼井も誰かしらと飲んでいるようで、スピーカーの向こうから聞こえる音が少しざわついていた。
「やあ、どうも。はじめまして、佐藤です」
「これはどうも、臼井です」
なんともつまらない、普通の挨拶をしてしまった。そう少し反省しながら、斉藤は話を進めた。
「鯨岡から、臼井殿はワンゲルに所属していたって聞いたんだけど」
「ああ、そうそう。高校時代にね。F高校のワンダーフォーゲル部」
『ん?F高校のワンゲル??』斉藤にはとても聞き覚えのある言葉だった。そこには、中学時代の悪友が所属していたはずだ。恐る恐る、その名前を口に出してみる。
「F高校ってことは、鈴本って知ってるよね?」
「鈴本?鈴本ひとし?」
「そう!そいつ!!」
「なんだ!ひとしを知ってるの?あいつも同じくワンゲルに所属していたよ」
「そうか、そうか。あいつは中学時代の同級生でね。よく二人で、悪い話をしていたんだよなあ。いやー、懐かしいな。最近は、全然会ってないんだけどね」
「世間ってのは、狭いね。ここで、ひとしの名前が出てくるとは思わなかったよ」
鈴本ひとしと斉藤が、その当時どんな話をしていたのかは筆舌し難いのだが、恐らく彼の強烈な個性は、臼井の記憶にも深く刻み込まれているはずであった。
「ところで、臼井殿。今、俺と鯨岡で、富士山に登ろうって話をしていたところなんだ。一緒にどうかな?」
「いいねえ!是非参加したいな。最近登山を再開したんだけど、運動不足でさ。だから難易度の高い山にいきなり行くよりは、富士山が調度良いかもね」
山家に「山登りに行こう」と誘って、断る者は居ないだろう。話はとんとん進み、近日中に一同顔合わせを兼ねてミーティングをすることになった。
そして、その数日後。
鯨岡宅に夕方集合し、その日に開催される花火大会を観覧しつつ、一杯飲みながら計画を練ろうということになっていた。土曜日ということもあり、難なく合流する鯨岡、臼井に対して、カレンダーとは無縁の勤務体系である斉藤は、すっかり仕事にはまってしまった。一向に終わりが見えない仕事を続ける斉藤は、もういっそ花火大会が終わった頃に合流しようと考えていた。鯨岡邸は、花火大会会場の近くにあるため、周囲の道路は見物客と、交通規制でごった返しているはずであった。規制解除して、人、車が掃けた頃に行くのが得策である。
この作戦は、見事に的中した。鯨岡邸に近づくと、幾分人の往来は多めであったが、問題なく到着。時刻は、22時過ぎ。朝7時に出社して、一体俺は何時間仕事をしていたんだ…と鈍った頭で考えながら、ヤツレ気味に呼び鈴を押す。
「おつかれさまー!」
陽気で軽快な声が出迎える。当然ながら、二人ともアルコールが入っている。目の下に隈を作っている斉藤とは対照的に、高潮して赤みを帯びた鯨岡と臼井がそこに居た。その様子が何だか鬱陶しく思えた斉藤は、挨拶もそこそこにビールを一缶、一気に飲み干す。これが飲まずに居られるか。
ようやく生気を取り戻した斉藤は、早速登山地図を取り出してルートを検討し始めた。富士山には4つの代表的な登山道がある。ご来光狙いの、ほぼ日帰り登山ということを考えると、車でのアクセシビリティが良い河口湖口が最良だった。他の二人の意見も同様だったので、ルートは決定。次に、装備品を検討する。この年の富士山は、既に初冠雪が観測されており、寒さとの戦いが予想された。但し、富士山の「初冠雪」とは、麓の観測地点から山肌が白く覆われて見えることを指すとのことで、“雪”ではなくても良いらしい。実際この年も、大量に降った雹が山肌を覆ったというものであった。
「一般的に、標高が100m上がると、気温は0.6℃下がると言われているから、山頂は氷点下だと想定した方が良いね」
「そうだね。アイゼンは必要ないだろうけど、マウンテンジャケットとパンツ、フリースは必須だね」
「鯨岡は持っていないだろうから、スキーウェアで代用するように」
さらに、標高が高くなるということは、絶対に外せない装備品がある。気圧の低下に伴う酸欠への対処として、携帯酸素が欠かせないのだ。
「高山病は絶対にヤバイぞ。油断すると、死ぬ思いをするよ。酸素、忘れるなよ」
斉藤は、登山初心者の鯨岡に、多少の誇張を交えて言い含める。街中を歩いているのとは違って、山中では足を挫くだけでも命取りになりえる。下山するのも、病院に行くのも大騒動である。自分の体は自己責任で守ってもらわなければならないのだ。
日程は9月13、14日に決定。それ以外の事柄については、斉藤が計画して全員に伝達することとして、この日のミーティングは終了。というのも、斉藤が本当に疲れていて、そしてそれ以上に酒が飲みたかったからであった。しかし、また酒かよ…
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