PRO TREKという便利道具がある。デジタル腕時計なのだが、時刻はもちろん気温、気圧、高度、方位を知ることが出来る優れもの。但し、高度に関しては大気圧の変化に影響を受けるので、時々修正しなければならない(高度気圧計は、100m上昇するごとに気圧が12hp下がるという法則に基づいているため。つまり低気圧接近中は、急に表示高度が上昇してしまうことがある。ちなみに、気温は100m上昇するごとに0.6℃下がる)。
前回の遠征時、高度修正を怠ったことが現在地をロストした原因の一つであったため、斉藤は標高を示す看板を見るたびに修正をしていた。もっとも、一本道のこのルートでロストは無いだろうが。さて、その際に気づいたのであるが、どうも大気圧がどんどん下がっているようだった。
「低気圧が接近しているな。毎回、看板よりも高い高度が表示されている」
その言葉通り、月は既に雲が覆い隠し、山頂は霞が掛かったようにぼやけている。気温も下がってきており、各自マウンテンジャケットを再装着したり、ニット帽を被ったりといった状況。天候は確実に悪化していた。
八合目に到着したのは、午前1時過ぎ。数軒の山小屋が客引きをしており、カップラーメンやおでんを販売していた。空腹と寒さの襲撃を受けていた彼らにとって、そのスペシャル価格は障害にならなかった。すぐさま入店し、山菜うどんとカップヌードルを頼む(それぞれ800円くらいだっただろうか)。臼井と斉藤のうどんはすぐに出てきた。普段であれば激怒して然るべき内容の代物であったが、この場において暖かい汁物を得ることが出来る幸福はプライスレスである。鯨岡はカップヌードルを頼んだのだが、ここで事件が起きた。運んできたバイトの兄ちゃんが、目前でカップを倒したのである。当然お湯が容器から流出したのだが、その時の兄ちゃんの言葉が凄かった。
「あっ、すみません。すぐにお湯を足してきます」
おい、そういう問題ぢゃないだろ!!!
「お前なぁ、ここにお湯を足したらスープが薄くなるだろ!すぐに交換してこい!!」
鯨岡の怒りと要求は全くもって正当である。加えて斉藤が「ハァ?お前バカだろ」という表情で睨みつけたので、そのバイト君はあわてて調理場に戻って新しくカップヌードルを持ってきた。
「おい、交換したフリじゃないだろうな?」
と確認し、ちょっと偉そうな人物の謝罪を受けて一件落着。とりあえず、腹を満たしたら色々と収まった。そんなことがあったり、眠かったりで長めの休憩となった。
既に標高は3,000mを超え、だいぶ空気が薄くなってきた。呼吸と心拍の回数が上がっている。序盤絶好調だった鯨岡もさすがにバテてきたようだった。
「ほらみろ。山を登るときは、調子が良いときこそペースを押さえないとダメなんだ」
と諭す臼井も少々辛そうである。
「一定のペースを作って、それを最後まで維持するようにすればいいんだよ」
さらに鯨岡を諭す斉藤。頭が痛いだの、気持ち悪いだの言っていたヤツに言われたくないと思う鯨岡であったが、この時の斉藤は覚醒していたのであった。それまでの不調はどこへやら。全く高山病の症状は消えうせてしまったのだ。臼井から体調を問われると、
「なんだか、3,000mを超えたあたりから調子が良くなってさ。ついにキタかな」
βエンドルフィンが分泌されたのか、高地に順応したのか。なんとか最後尾にしがみついていた斉藤は、いつしか先頭を歩くようになっていた。現在の標高は3,200m。日本で2番目に高い山、北岳(3,193m)を超えた。
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