徐々に周囲が明るくなってきた。日の出時刻が近付いているようだ。ただし、今の気象状況で、果たしてご来光が拝めるかどうかは不透明である。
暗闇から開放されていくと共に、そこら中に人だかりが出来ていることに気づいた。わいわい、がやがやと騒がしい。
「こちとら、命がけで日の出を見に来ているのに、お前らまるで遠足気分だな
」
”命がけ”とはオーバーな話だが、霊峰富士山の山頂に響く嬌声は、強い違和感を覚える。3分間聞いているだけで、げんなり、うんざりさせられた。もはやこの山は、神々の座ではなく、到達するべき頂でもなく、単なる観光地にたってしまったようだ。頂上に売店があるなんて、もってのほかである。本気で世界遺産に登録しようと思っているのならば、こういう不要なものを一切合財潰して、元の更地に戻さねばなるまい。
寒さに震えながらそんな事を考えていると、やがて下方には真っ白な雲海が広がり、それ以外の部分は、分厚い雲と濃い霧に覆われてしまっていた。時折雲海の切れ間から下界の様子が垣間見える。周囲の視界は10mといったところか。人だかりも、声は聞こえど、姿は見えずといったありさま。益々ご来光が遠のいた。
それでも待ち続けることしばし、東の空が赤く輝きだした。分厚い雲に、薄く切れ目が入っているようで、わずかにそこから光が漏れ出して、空をささやかに染めた。もうこうなったら、チラ見せでも構わないから、なんとか太陽を拝みたい。白い風景にはもうウンザリであった。
数分後、一斉に歓声が上がる。
「おぉーっ!!ご来光だー!」
「すげー、感動した!!」
「生きててよかったー!!」
などと、感極まる程の代物ではない。なにせ、雲間はわずかしかないのである。赤色の球体は、その姿を半分も見せることなく、あっというまに消えていった。そして入れ替わるように、なんとなくシラけた空気が、その場に漂っていた。
まあとりあえず、ご来光を拝むという目的は達成されたので、ホットコーヒーで祝杯を挙げる。当然、沸点が低いので、ぬるーいコーヒーではあったが、冷め切った体を少し元気付けた。
落ち着いたところで、剣が峰への登頂と、お鉢まわりをどうしようか、ということになった。体力的に問題はなく、時間にも余裕がある。全員明日も休みを取っていた。ただし、太陽が雲の中へ姿を消してから、一層濃さを増してきた霧が問題である。視界の悪さは、安全に登山を続けられないレベルに達していた。もしもこんなところで迷子になったら、下界ではまだ蝉が鳴くこの季節にして、凍死一直線であろう。という訳で、お鉢まわりは断念することにした。
剣が峰=標高3,776mの最高点への到達だけは、何としても成し遂げたいと、斉藤は主張したのであったが、地図で現在地を確認すると、剣が峰までは、富士山頂を半周しなければならないことがわかった。つまり、行って帰ると一周してしまう。お鉢まわりを断念した彼らにとって、剣が峰への到達を断念しない理由はなかった。
いつか再び挑戦することを心に誓い、下山の途についた。
山頂に着いたは良いが、日の出までにはまだ2時間以上ある。それまで、これといってすることもなく、ただ寒さに耐えながら壁際に座り込む三人。バーボンウイスキーを回し飲みし、体を温めることに努めていた。
斉藤は、煙草を吸おうと、ライターを取り出したのだが、火花は散るものの着火しない。強風もさることながら、気圧も影響しているのであろうか。
「いいこと思いついた!!」
斉藤が得意げに声を上げると、間髪を入れずに、
「やめろっ!」
という鯨岡。
「俺らを殺す気か!!」
「まだ、何も言ってないけど??」
「お前、酸素ボンベに着火させようと思っただろ?」
「おおっ!おぬし、人の心が読めるのか?よくわかったな!」
あまりの寒さと、低酸素状態が、人の判断力を狂わせたのか。もしもそれを実行に移していたら、煙草はおろか、辺り一面火の海になったに違いない。鯨岡の言葉で、我にかえった斉藤であった。
さて、臼井はというと、膝を抱えて座り込んだまま、ピクリとも動かない。体温の放出を防ぐため、表面積を小さくしようと、膝の間に顔を埋め丸くなったままである。斉藤、鯨岡が呼びかけても、返事すらしないのだ。寝てしまったのか、と思いきや、突然はっとした表情で顔を上げた。
「俺らの様子を俯瞰で見ていた。危なく、体から抜けきってしまうところだったよ…」
まさかの臨死体験中だったようである。そういえば、臼井の装備が一番薄い。寒さに耐えかねたのであろう。これはまずいと、気つけにウイスキーを口に含み、寒さや眠気を追い払おうと必死になっていた。
しばらくすると、別の登山者が近くに座り、ラーメンを作り始めた。風に乗ってスープの香りが漂ってくる。やがて、出来上がったラーメンを上手そうにすすりはじめた。その様子を、冷え切った体を震わせながら眺めていた。今なら、マッチ売りの少女の気持ちが良くわかる。
「せめて、スープだけでも…」
「いや、こいつらを崖から突き落として、ラーメンを奪い取ろう…」
辺りには不穏な空気が漂い始めた。
そうこうしているうちに、日の出の時刻がせまってきた。それに呼応して、周囲の人口密度が増してきた。途中の山小屋で宿泊し、ご来光に合わせて登頂してきたツアー客の団体である。そういう類の人たちであるから、中にはおよそ登山するとは思えないような格好をした者もいる。何時間も寒風に吹き付けられて待ち続けている斉藤、鯨岡、臼井の三人は、お手軽ツアー客に対して、一方的に敵愾心を燃やしていた。特に斉藤は、撮影のベストポジションを盗られてなるものかと、三脚にカメラを据えて、崖の縁へと移動した。壁際を離れると、風を防ぐものは何もなく、冷たくなった体をさらに凍てつかせた。
「こんなに手が震えていて、シャッターをちゃんと押せるだろうか…」
と、心配していた矢先、新たな障害が降ってきたのである。
「パラパラパラッ・・・」
被っていたフードに何かが当たる、乾いた音がした。強風で砂礫が飛び始めたと思ったのだが、目の前に白い物体が舞っている。
「雪かよ、あははっ…」
力なく、笑うしかなかった。
八合目を過ぎ、九合目を向える頃には、営業している山小屋も無く、自身のヘッドライトだけが道を照らしていた。雲が完全に月を隠し、夜闇の濃さが増していく。
ここまで来たら、そんなに急ぐ必用はないので、バテ気味の二人にペースを合わせて進む。すっかり余裕が出てきた斉藤は、それまで自粛していた煙草に火をつける。
「はあー、うまい!」
肺一杯に煙を吸い込み、悠々と吐き出す斉藤。それに引き換え、鯨岡と臼井は地面にヘタッと座り込んでいた。
「どうした、諸君。あと少しだ。元気出していこーぜ!」
という声にも、面倒臭そうに反応するだけだった。
山頂がだいぶ間近に見える。気温もかなり下がってきており、途中、焚き火で暖をとる一団に出会った。その気持ちはわからないではないが、国立公園内での焚き火は禁止されているはずだ。そんなことを考えながら、その場を通り過ぎた。
ふいに大きな鳥居が姿を現した。夜間の登頂ということで、風景がよく見えなかった。したがって、前触れも無く突然頂上が目の前に出現したといった雰囲気に包まれた。
「よーし、ついたぞ!」
という感慨もそこそこに、撮影ポイントを探す。山頂にはすでに大勢の登山者が到着しており、ツェルトを張ったり、アウターシェルを装着した寝袋に包まったりして日の出を待っている。それにしても寒い。北風が強く吹きつけ、体感気温をかなり下げている。こんな風に何時間も吹きつけられるのは、ご免こうむりたい。三人は、風を避けつつ東に向いている場所を探し回った。
20分ほど徘徊して、ようやく良い場所を見つけた。ように思えたのだが、何だか少し臭うような。目の前に見える小屋はトイレなのか?暗いのでよくわからない。それはともかく、他には誰も居ないし、岩壁を背にして正面が東を向いているので、ご来光の写真を撮るには最適なポジションだった。
崖の縁から下を覗くと、登山道が無数の青白い光に埋め尽くされていた。
「富山名物ホタルイカみたいだな」
「うわっ、すげー渋滞。あんなところ歩けねーよ」
「五合目から、ずっとつながってるんじゃないか?」
皆口々にその光景の感想を述べる。無数の光は揺らめきながら、少しずつ山頂目がけて動いている。あれだけの人数が山頂に到着したら、そこらじゅう人だらけになることだろう。たった一時間ではあったが、早めの行動が効を奏したようだった。時刻は午前3時半少し前。途中でたっぷりと休憩を挟みながら、6時間あまりでの登頂というのは、標準時間6時間弱とされるこのルートにおいて、かなりハイペースで上ったことになるだろう。