時刻は15:30。日は西に傾き、ようやく染まり始めた木の葉に金色の輝きを与えている。夕闇はそう遠くないところまで迫っており、のんびりしている時間はあまりなかった。ロッヂ長兵衛で再び全員結集した一行は、最後の行程を歩き始める。
「ここら辺は、紅葉が進んでいるねえ」
先を急ぎたい気持ちはあったが、ようやく晩秋らしい光景を目の当たりにした一行は、写真を撮りながら緩やかに進んでいった。
「ポキャア!」
なんとも気の抜けた音が森の中に響いた。竹上の携帯カメラから発せられたその音が笑いを誘う。
「何それ!おもしれー!」
「脱力系シャッター音だな」
「へへー、面白いでしょ!」
スイングミラーが無く、構造上撮影時の音が少ないコンデジや携帯電話に音を鳴らすようにしているのは、盗撮等に悪用されないようにするための措置であるが、あえてそれを特異な音にカスタマイズするというのは大変面白いと思う。
「最近の携帯はすごいねー」
「いやー、若者文化だねー。もうついていけないよー」
急に年寄り染みてきた一行。まだまだ若いつもりでいたのだが、確実に若年層の文化とはズレが生じ始めているようだ。新しいガンダムの話題とかには敏感なんだけど…。
ロッヂ長兵衛からの道は、舗装路と交錯するように登山口へと続いている。その舗装路から落ち葉の絨毯が敷き詰められた登山道に入るところで、江藤(利)がとある看板を発見した。“熊出没注意”と書かれたその看板に、
「やっぱ出るんだ、熊」
「今年は人里に近いところでの発見例が多いからなあ」
「今時期は、冬眠前の腹ごしらえをする為に、結構この辺りでも出没しているんじゃないの?」
雑食性の熊はこの時期、栄養豊富なドングリ等の木の実を食べて皮下脂肪を蓄えようとする。だが、夏場の天候不順等の影響で木の実が不作だったり、そもそも実をつける木が少ないという環境下では、食べ物を求めて人里に下りてきて田畑やゴミを漁る。人間と熊の距離が近づくにつれて、お互いにとって不幸なことが起きる。熊だって人間が怖いのだ。身の危険を感じた彼らが、生存本能に従った行動をとることについて誰が責められようか。そもそも、彼らが人間に近づいているのではなく、人間の方が彼らの生息域に入り込んでいるのである。そのことを自覚し、畏敬する気持ちが薄れがちの人間達には、いつか相応の報いが来ることだろう。
次第に辺りが暗くなっていくにつれて、先頭を行く江藤(利)の歩みがまた速まっていった。第二のトラウマスイッチ“暗闇”が、彼の不安を煽る。
「暗くなってきたよー。ヨシ君、あとどれ位でゴールなのかな?」
「そうですねえ、あと一時間も歩けば着くんじゃないかな」
「真っ暗闇の山道を歩くのヤダよー!もうすぐ日没じゃないの?」
「うーん。この分だと、途中で日が暮れるかもね。でも、大丈夫!ちゃんとヘッドライトを持ってきたから、夜道も安心
」
斉藤のこの言葉に、その他の全員が戦慄を覚えた。暗闇を歩く恐怖感は、熊笹・薮こぎに続いて、彼らの心の深淵に刻まれていた。彼らにとっては、二度と味わいたくない異常な体験であり、こればっかりは喉元を過ぎても忘れることが出来ないでいた。
「暗闇はイヤだ!」
「ヘッドライト?冗談じゃない!そんな物を使うことになる前に、何としても下山するぞ!」
彼らの恐怖心は、やがて言葉から行動へと影響を及ぼし始める。そして、ついに江藤(利)が走り出した。「またぁ?」と斉藤が思った瞬間、今田、竹上、薮内、江藤(隆)が背後から怒涛の勢いで迫ってきた。
「うわっ、やべえ!こいつら、恐怖に駆られて突進してきた!」
その勢いに押し出されるようにして、斉藤も走りだした。まさに、トレイルランニングといった様相で夕闇に包まれた山道を駆け出す一行。周りの風景を見ている余裕は無く、唯ひたすら走り続ける。もちろん、休憩も無し。ゴールが近づいていることを直感的に理解したテラは、「お気に入りの車のシートで早く休みたい!」と、さらにその足を速めていった。
16:30過ぎ、スタート地点の駐車場に到着した。何とか日没前に下山出来たのである。ずっと走り詰めだったので、もうヘトヘトだった。だが、無事に下山できた安堵感が彼らの周囲に漂っていた。一同、駐車場に備え付けのベンチに荷物を置き、お互いを労い、無事を祝福した。
暫しの休憩の後、それぞれ帰り支度を始める中、今田が着替えようとフリースを脱いだ。彼の体からは、びっしょりかいた汗がもうもうと湯気を立てている。
「おお、すごい!お父さん、闘気を纏っている!世紀末覇者か?」
「ぬうおーっ!!!」
すっかりラ○ウ気取りの今田は、斉藤の向ってポーズを決めた。
「かっこいい、かっこいい!」
周りの者もはやし立てる。オッサンから醸し出される汗がこんなに持て囃されることは無いだろう。普段こんなことをしたら、煙たい顔をされて嫌がられるに決まっている。
一行が駐車場について20分程で、辺りはすっかり暗くなってしまった。秋の日は釣瓶落としというが、まさに唐突に闇に包まれたのである。空には星が輝き始め、夜になったことを静かに伝えていた。
「じゃあ、帰ろうか」
各々2台の車に分乗し、黒いシルエットだけになった大菩薩嶺の森を後にした。
椎名誠の著書の中に“下山家”という言葉が出てくる。山に登ることよりも、下山することに喜びを感じているような人のことを指す。だから頂上を目指す道程では「休憩しようよ~」とか、「まだ着かないの?」とか、「もう止めようよー」というようなネガティブ発言が多く、本当に何しに来たの?と周囲に思わせる。ところが頂上に到着して下山の途につくと、途端に元気を取り戻し、先頭を歩きながら「みんな、早く行こう!」なんて言い出す。登頂過程の苦しさによる過度のストレスから精神を守るため、脳が反応して分泌する快楽物質の虜になっている多くの登山家とは、どうやら脳内麻薬が生産される引き金が異なるらしい。下山家にとっては、上りは唯辛いだけで、下りこそ登山の醍醐味であり目的なのであろう。
この日江藤(利)は、下山家としてデビューした。兎に角歩みが速い。今までの遠征で見せてきた、終始お疲れ気味といった様相が一変しているのである。愛犬テラと共に、ズカズカと先頭を歩く。その勢いは、大菩薩峠を過ぎてからますます強まっていった。他のメンバーは、あまりにも速い彼のペースに心配を募らせていたのだが、当の本人はその時“下山家”としての資質を覚醒していたのであろう。そして、その彼を強く後押しするものが二つあった。
その一つは、熊笹である。前回の遠征で、メンバーは長時間の薮こぎを強いられた。ルートをロストしてから復帰するまでの半日間、探索と薮こぎを繰り返し、江藤(利)は装備品の幾つかを失い、滑落の危機を何度も味わった。その記憶は、彼の心に深い影を落とし、トラウマとなっていたのである。
帰路の途中、一面熊笹に覆われた斜面に遭遇した。その途端、歩みを止めた江藤(利)は、
「隊長!熊笹であります!突撃ですか…」
と後ろを振り返りながら斉藤に声を掛けた。
「突撃?フフフッ、いいねえ。楽しそうじゃん、薮こぎ!きっと近道だよ!」
と答える斉藤を、恐怖を滲ませた表情で見遣る江藤(利)。ところが、この熊笹と薮こぎという言葉に反応を示したのは彼だけではなかった。
「ヨシ君のその言葉には騙されないぞ!こんなところ絶対に行くもんか!!」
「ヨシさん、やめましょうよー!もう熊笹はいいですよ…」
「薮こぎは嫌やなあ。ちゃんと道を歩こうよ」
今田、竹上、薮内はそれぞれ“かの言葉”への思いを吐露する。彼らの心にも、この夏の記憶が深く刻まれているらしい。江藤(隆)はというと、少々引きつった笑顔を見せている。彼もあまりこころよく思っていないようだった。斉藤自身は、別に好んで薮こぎをしたいとは思っていなかったが、何せ今回の行程には刺激が不足していると感じていた。何とか刺激的なイベントを追加する手立てはないものかと考えていたのである。だが、本当にこの斜面を下って行ったら、今日中に帰宅できる可能性がほとんど無くなってしまうだろうことは勿論理解している。怖がるメンバーの反応を楽しんで、刺激の代替としていたのであった。
「あれー、みんな突撃には反対なんだ…じゃあ、今日は止めようか!」
彼らの反応を充分に楽しんだ斉藤は、ニコニコしながら言う。その言葉にほっと安堵の表情を見せるメンバーとは対象的に、トラウマスイッチが入ってしまった江藤(利)は、
「熊笹イヤだー、薮こぎもイヤー!」
と叫びながら走り出す。瞬く間に彼の姿は視界から消えていった。今歩いているルートは分岐が無い一本道なので、彼が迷子になることはないだろうし、流石に途中でバテて止まっていることだろう。そう思いながら他のメンバーは、若干歩みを速めて後を追った。ところが、行けども行けども彼の姿が見えない。早足で追いかけているのだが、全く追いつかないのである。その頃江藤(利)は、下山というシチュエーションと、トラウマスイッチによって多量に分泌されたβエンドルフィンに浸され、多幸感に包まれて疲労を感じなくなっていた。一気に下り坂を駆け抜け、ロッヂ長兵衛で後続の到着を待っていたのである。
「遅いよー。ずいぶん待った!」
「利さん、速すぎるよ!」
ぞろぞろ到着する後続と、江藤(利)はそれぞれ相手に言葉をぶつける。
「利!お前、下山家として目覚めたみたいだな!」
「そうだね、利さん。もう立派な下山家だよ!」
今田と斉藤が敬意を込めて江藤(利)に言葉を掛ける。
「えーっ、なんすかその“下山家”って?」
という彼に下山家の説明をすると、
「おお、そうだ。俺、下山家かもしれない!だって、登ってる時はぜんぜん楽しくないもん!」
と、自らにピッタリの名称が送られたことに合点がいった様子。こうして彼は自覚的に“下山家”としての道を歩みだしたのであった。
山頂を後にした一行は、これまでの道のりとは一転して下り坂を進んでいった。午前中ずっと囲まれていた木々は途切れ、潅木と下草が生い茂り、所々岩石が露出した風景が広がる。道は稜線上にはっきりと浮かび、大菩薩峠まで続いているのが見えた。進行方向の右手側(つまり南の方角)には、湖面に太陽の光を反射し、銀色に眩しく輝く大菩薩湖が遠望できる。
稜線を進む一行の上に、遮るものの無くなった陽光が降り注いでいた。だが、周囲の空気は冷たく乾燥しており、日差しは特に気にならない。休憩により気力、体力を十分に回復していた彼らは順調に歩を進め、30分程で荒涼とした場所に到着した。大小様々な石が堆積しガレ場となっている。避難小屋と思しき木とトタンで出来た建物がポツンと存在し、その他には標識と、小高く積み上げられた石の塔が複数目に入った。
「チョルテン(チベット語で仏塔の意)か?ほら、ヒマラヤとかでよくあるやつ」
「それにしても、旗とかが無いね」
という風にボケるには、あまりにも石積みの数が多い。それに、この地でチベット仏教が根強く信仰されているとは、とうてい考えられない。この光景は誰が見ても素直に「三途の川」を連想させる。そう、ここはその名も「賽ノ河原」である。「一つ積んでは父のため…」と歌いながら、親に先立った子供たちが石を積み上げる。塔が完成間近になると、鬼が壊しにきてやり直し、という切ない話の最後には地蔵菩薩が救済するとのこと。この一面に広がる荒涼としたガレ場を見た先人も、三途の川の光景を連想させて名付けたのであろう。そして、元々の大菩薩峠はこの場所であったそうだ。以前から峠道で迷って帰らぬ人が多発していたため、現在の場所へ道を付け替えたとのことである。まさに踏み越えると現世には帰れぬ場所であったらしい。
「こわっ!賽ノ河原かよ…」
「これはやばいっすよ…」
「縁起でもないことが起きるから、誰も石積みに触るなよ!」
斉藤のイタズラ心に火がつく前に、今田が自制を求める。斉藤は「上手く石をぶつけたら、ダルマ落としみたいになるかな」という考えを試みようと思っていたのだが、今回は今田の発言を聞き入れることにした。ここでイタズラをすると、周り中を敵に回しかねない。いろんな意味で賢明な選択であろう。
雰囲気的にあまり気持ちの良い場所ではないので、早々にこの場を離れた一行。下り坂はさらに続き、高度はどんどん下がっていく。テラは元気に先頭を突っ走り、それに引っ張られるように江藤(利)が後に続く。他のメンバーは、先頭からちょっと離されたところをぞろぞろと歩いている。そうして歩き続けているうちに、目線の先にいくつかの小屋が見えてきた。現在の大菩薩峠である。
小屋までの道すがらには、石塔が供えられていた。文学界の金字塔「大菩薩峠」の作者、中里介山の記念碑である。なんて書いてあるかは、字がかすれてしまってよく読めない。読めないんじゃ仕方が無いねという感じで、皆一様に通り過ぎる。ギネスブックにも記載されている大作の作者なんだから、せめて文字が読めるように管理すればいいのにと思わせる。もっとも、厳しい自然環境に晒されて、ありのままに風化していくことを良しとするというのも悪くはないが。
そのまた少し行くと、今度は黒い円形の石台があった。台上を覗き込むと、遠望できる山々が記されていた。この場所からは、遠く南アルプスの山並みを見ることが出来るようだ。
「なになに、おおあれはまさしく甲斐駒ケ岳じゃないか!」
霞がかかってかなり見づらかったが、峻険なその山容を望むことが出来た。いずれはチャレンジしなければならない遠くの山々を眺めながら、その時はまだ遠いだろうと斉藤は感じていた。彼は、隊員たちのレベルアップを図る為の訓練計画を密かに練っている。だからこそ、登る山の高度を徐々に上げたり、あえて難路にルートを設定しているのである。だが、目指す日本アルプス山系に挑戦するためには、技術も経験も道具も不足しているのが現状だ。「只のおちゃらけキャンプ集団では終わらせないぜ。フフフ…」そんな不気味な決意めいたものが心の中でこだましたのであった。