当日はメンバー全員に残業禁止令が出されていた。日没時刻から逆算すると、最終勤務者が業務を終えてから出発予定時刻までの間がほとんどなかった。せいぜい帰宅してシャワーを浴びる位であろう。そんな状況だから、うっかり残業されると予定が大いに狂ってしまう。スタートでのタイムロスをリカバーする計算は、斉藤の中では成立していなかった。
斉藤は、せっせと自らの業務を片付けていき、定刻には退社できる目途がついた。全メンバー中、もっとも残業確率が高い斉藤だったが、今日はスムーズに事が運んでいる。最悪の場合、メモ用紙に「スマン!」と一言書いて会社から逃げちゃおうとまで考えていたのだが、どうやらその必要はなさそうだ。斉藤よりも遅い勤務に就いていた江藤(隆)の様子も順調なように見えた。「よしよし、予定通りだ」とほくそ笑みながら帰宅の途につく斉藤。しかし、事件はその後に起きたのである。
江藤(隆)の仕事が、突如乱れ始める。駆逐艦からの爆雷攻撃を受け、圧壊深度まで逃げ込んだ潜水艦の如く、次から次へと噴出する水(トラブル)が止まらない。一箇所を押さえたと思えばまた別のところからといったありさまで、まるで収拾がつかないのだ。そしてついに、定刻内で業務を終える見込みが無くなってしまった。その状況を見かねて周囲の者が助けに入るも、事態は好転することなく、ただいたずらに時間ばかりが過ぎていくのであった。
一方、そんなことはつゆ知らず帰宅して準備に取り掛かっている斉藤。すっかり身支度を済ませ、あとは迎えの車を待つばかりだった。だが、その迎えが一向に現れない。それどころか連絡すら無い。時間の経過と共に募る苛立ち。「おい、どうなってんだこりゃ?」と思いながらも、ギターを奏でて(深夜なのに…)気分を落ち着かせようとする斉藤。しかし、元来短気な性格なのですぐさま我慢の限界を迎えた。
「利さん、ヤツから何か連絡ありました?」
と、それでも怒りを抑え、平静を装って江藤(利)にメールで問い合わせる。だが、彼も連絡が無いと心配している様子だった。その後しばらくして、江藤(隆)が仕事にハマって抜け出せなくなっているという情報が飛び込んできた。その情報が斉藤の導火線に火を点けた。もはや平静さを装う必要もないと怒りをあらわにし、
「はあ?残業するなって言っただろ?なんだそりゃ?業務時間内に終業するのも仕事の内だ!!」
というメールを全方位に発射する。斉藤のこのメールに全メンバーが戦慄を覚えた。
「やばい、ヨシさんが相当怒ってる」
「こりゃ、血を見るな…」
「誰だ!魔人を起こしたヤツは!」
そんな言葉がメンバーの間を交錯している最中、ようやく渦中の人、江藤(隆)が仕事を終えたとの連絡が入った。斉藤からの「おっせーなー!」という度重なるバッシングに急かされ続けた江藤(隆)は、帰宅するとすぐに身支度を整えて飛び出してきた。結局斉藤宅に到着したのは午前2:40頃。出発予定時刻から10分遅延しただけで済んだのであるが、スタートから躓くとどうにも気分が悪い。江藤(隆)が恐る恐る遅延を詫びるが、あからさまに不機嫌面でそれに答える斉藤。
「まあ、済んだことはしょうがない。さっさと竹上を回収しに行こう」
といいながら、自分の荷物を江藤(隆)の車に積み込む。不機嫌ではあったが、いちいち過ぎたことを追求しても時間が元通りになる訳ではない。瞬間湯沸し機能付きピーピーやかんは、湯冷めも早いのである。さっさと気持ちを切り替えて、竹上回収に向った。
その頃、江藤(利)は実家からテラを乗せて既に出発し、今田、薮内を回収に向っていた。テラは江藤(利)の実家で飼われている雑種犬である。前回の遠征で彼(元)は、主人である江藤(利)思いの忠犬っぷりを発揮し、メンバー全員から尊敬される存在になっていた。敬意を表してしばしば“テラ軍曹”と呼ばれる彼を、将来的には日本100名山を踏破した登山犬にするのがS.N.F.メンバーの目標でもある。彼自身も山を歩くのが楽しいようだった。けれども、S.N.F.メンバーの顔が揃っているのを見るとイヤな記憶がフラッシュバックするようで、決まって最初は尻込みをする。それでも山に近づくほどにいきいきとしてくるのであるから、彼もやはり山で何かを感じ取って、それがたまらなく心地良いと思っているに違いない…と勝手に想像するのであった。
◎追記
後日、この斉藤お怒りエピソードは、別の時の話であるとの指摘がありました。なるほど、確認してみるとそのようでした(メールが残っていた)。これを修正するには話の構成を作り直さなくてはならず、それはそれは面倒なので、今回はこのまま話を進めることとする。従って、同じようなエピソードが別の話に登場することになるだろう。まあ、いつも何かに怒っているような人物だから、本当にこういうことが頻発していても不思議ではないのだが…
S.N.F.の遠征先を決めるに当たって、まず第一に考慮すべき点は日程である。勤めている会社は比較的休みが取りやすいのだが、学生時代から登山部やワンゲル部に所属していて、根っからの山男という訳ではないメンバーにとって、家族をさしおいて自身だけ山に行くという行為に、妻子から理解を得るのはなかなか大変である。
泊りがけでの山行は、せいぜい年に1、2回。となると、もっぱら日帰り登山が中心になり、必然的に車でのアクセスが良い山を優先的に選考することになる。高速道路から降りて30分以内に出発地点に到着出来る山が第二のポイント。
第三のポイントは、2,000m級の山である。日帰りだからといって、近場の低山で済まそうという気にはなれない。なんといっても、脳内麻薬が分泌されるシチュエーションが大切なのである。マイナスイオンは二の次だ。ガイドブックの指標を頼りに、6~8時間位で登り下り出来、なおかつ標高が2,000mを超えている山を探す。関東平野の東端に位置する千葉県に住んでいる彼らにとって、この条件に合う山を探すのはなかなか骨が折れる。車での移動は少なくとも片道3時間は要するので、全行動時間は15時間以上にも及ぶ。千葉県に高い山があればなあと無いものねだりをしたくなる。
10月に入ると、前回の大惨事もすっかり喉元を過ぎ、禁断症状がムズムズと現れ始めた。8月の遠征以降、しばらく活動を停止していたS.N.F.であったが、その間も斉藤は富士山にご来光を撮影しに行って、他のメンバーよりも多く山に登っていた。だが、この富士山がてんで面白くない。斉藤曰く「でっかい丘」であった。ただひたすらに登るだけ。高地に順応し、心さえ折れなければ、技術的なものは不要。実際、ほとんど睡眠を取らずに富士山を攻略し、車を運転し詰めだったにも関わらず、帰宅翌日にはプールで泳ぎまくったそうだ。「富士山だけでは、体のイジメ方が足りん」とのこと。
他のメンバーは8月以降、家族サービスに休日を費やし、山行マイルを貯め続けていた。マイル数が上がっていくとともに、山に行きたい欲求も強さを増してくる。そんな時に、斉藤からの一斉メールが届いた。
「11月前半、日時未定、場所未定、予算未定、その他詳細未定。参加者募集中!!」
おぼろげながら“月”だけが決まっているだけの企画への参加者を募るメールに一同「???」といった様子であったが、とにかく事務局が動き出しているようだった。元来、企画立案に関しては事務局=斉藤に投げっぱなしだったメンバーは、それでも参加の是非を返信するのであった。ちなみに、その“投げっぱなし”が、8月の遠征時にはアダとなったのだが…。結局、井川隊長が家庭の事情で不参加となったが、斉藤、今田、薮内、竹上、江藤(利)、江藤(隆)、そしてテラ(犬)が参加することになった。
相変わらず、仕事中にも関わらずパソコンで登山情報の収集をしている斉藤の目に「大菩薩峠」という文字が飛び込んできた。「市川雷蔵!?」ちょっと前に同名の映画を見たばかりだった斉藤は、興味深々で調べを進める。山の名前は「大菩薩嶺」で、標高2056.9m。中里介山の小説「大菩薩峠」の舞台にもなった場所であり、前述の市川雷蔵主演で映画にもなった。尚、同作は未完の一大巨編である。コースの指標時間も6時間程で、中央自動車道勝沼インターからもそう遠くない。恐らく彼らが日帰りで登れる2000m級山の最西端であろう。
斉藤はこの大菩薩嶺に行き先を定め、直ちにその他の調整に入った。場所さえ決まれば後の手配はお手の物である。各メンバーの都合を聞いて日程を確定し、業務シフト作成者に便宜を図ってもらう。彼らにとって大変都合が良いことに、シフト作成は井川が担当していた。ただし、自分が参加出来ない今回の企画にヘソを曲げる可能性は充分にあるのだが。
「浩平さん、何とかお願いします。このとーり!」
「ああ、まあなんとかやっておくけど、あれだけ斉藤が日にちを伝えているのに、休暇リクエストをしていないバカがいるみたいだけど、それは放っておいていいか?」
「…俺から言っておきます」
「休みは押さえてやるけど、前日の勤務は期待するなよ。全員早番がいいって言われても無理だからな」
「それはもう、当然ですよ。大丈夫です。当日の休みさえ頂ければ、前日遅番だって問題無しです」
そんなやりとりを経て、どうにか日程を確保することが出来たのである。その他、車両の手配、行動計画や装備品を記したしおりの作成等、連日激務が続いていたにも関わらず、遊びには一切手を抜かない主義の斉藤の手によって流れるように計画が出来上がった。斉藤からのしおりを元に各自準備を進めていき、あっという間に出発前日を迎える。だがそこには相変わらずの一悶着が待っていた。
今回の話の構成上省かれた、または筆者が加えるのを忘れていたエピソードなんぞを披露。
・水について
江藤(利)に、喉が渇いたと感じる前に、こまめに水分補給するよう指示していたのだが、往路の前半戦で水が飲めないという。500mlペットボトル分の水分だけ表に出し、残りの水はザックの奥深くにしまいこんでいた。道中、どうにもバテバテな江藤(利)の救済措置として荷物を軽減することになった。彼のザックをバラしていくと、パッキング術を全く無視して配分されていた装備品と、底近くにしまわれた水とウーロン茶の2ℓペットボトル、計4本を発見。折角規定値以上の水分を持ち込んでいてもこれじゃあねえ。2時間以上の山歩きを500mlの水分で足りるとでも?真夏なのに?
・食材の運搬について
全ての食材、水を持ち込まなくてはならない状況ではあったが、インスタント食品なんか認めないという井川隊長の意向というか厳命により、何を食べるかを考えた。結局、日本人のキャンプ食の王道、カレーライスと豚汁を作ることになった。そうなると、真夏の盛りに肉を運ばなくてはならない。出発前に冷凍し、車内ではクーラーボックスで低温を保って、肉の傷みを防ぐ。で、今田はその肉をプラスチック製の容器に入れてザックに詰め込んだ。当人は密閉出来るので良かれとの判断だったのだが(もしかしたら、斉藤が「肉は凍らせて、タッパとかに入れたら傷まずに運べるよ」なんてポロッと言ったかもしれない…)、野営地に着いて食事の準備をしていた時に井川隊長がその容器を見つけてご立腹。
「お前、なんでジップロックに入れてこないんだよ!空になった容器がデッドスペースになるだろ!」
ごもっともである。そもそもザックの内部形状からして、四角いものはデッドスペースを生みやすい。2、30年前ならいざ知らず、形状を容易に変えられて液体でさえしっかり密閉保存できるジップロックは、現代においては特殊なものではない。広くご家庭に分布して世の奥様方から絶大なる支持を得ているソレを使わなかったことに対して、井川の怒りが炸裂したのであった。ちなみに斉藤は、飴やら梅昆布、あたりめなどのおやつから、トイレットペーパー、医薬品に至るまで、全てジップロックに小分けして持ってきていた。
・噴泉塔で遭遇した人について
我々が噴泉塔に到着すると、先客が居た。お互いに軽く挨拶をしただけで、それ以上の交流はなかったのだが、我々の行動はしっかり観察されていた模様。江藤(利)が川に飛び込み、そのまま下っていった様子を「仲間割れをして、一人が川を下っていったようだ…」と、とあるブログに書かれていたという報告が上がっている。
・エロ話について
人間の3大欲求「食う、寝る、ヤル(SEX)」は、文明から隔絶された山の中では、特に顕著になる。後天的に獲得した「理性」の力が弱まり、先天的な「本能」が強く発現する。我々の道中での会話は、ほとんどがエロトークであった。一般的な登山者、ハイカーがどういう会話をしているのかはわからないが(←メンバーの誰一人として「一般的」であったことがないから)、ともかく我々はそうだったのである。自らに危険が差し迫った時、子孫を残そうとする生物としての本能がエロトークに結びついているのかもしれない。従って本編では、登場人物は多いものの会話シーンが少なかったり、無口な感じに表現されていたりするが、実際には他人が聞いたら引いてしまうような筆舌に耐えない内容の話をずっと繰り広げていた訳である。
・うんこについて
山の中には当然トイレなんて無い。なので必然的に野糞となる。俗に「雉撃ち」とか「お花摘み」という隠語で表現される(いずれもしゃがんだ様子を結び付けている)。行動中は極力我慢していたので、皆野営地で用を済ませていた。井川隊長は腹を下していたため、スプレッドなヤツを度々離れた草の茂みに撒き散らしていた。野営地を見回すと、その茂みが一番脱糞に適していたので、他のメンバーもお互いのマーキングに注意を払いながら用を足す。そんな有様だから、野営地に着いてからは前述のエロ話に加え、うんこの話で盛り上がる(小学生か…)。
「ちょっと、あんなところにうんこしたの誰ですか!危なく踏んづけるところでしたよ!」
「おお、すまん、すまん。俺だ。もっと奥に行こうと思ったんだが、我慢できなくってな」
ところで、地雷原と化した茂みを避けて用を足す者達がいた。斉藤、今田、江藤(利)は、野営地前を流れる川の下流で爆弾を投下する。天然の水洗便所である。さらにウオッシュレット機能付き。川の流れにコロコロと転がっていく自分の分身を見送りながら、哀愁を感じずにはいられない。「さらば、達者でな」と手を振る。別れとは切ないものだ。
・テントについて
今田が今回のために購入したツーリングテントが、野営地に張り終えて間もなく崩壊した。骨組みがポキっと折れてしまったのである。ただの布袋と化したそのテントは、その後荷物入れとして使用された。ところで、テントを全員が携行する必要は全く無い。斉藤は3人用のドームテント、井川が2人用、薮内も2人用を持っていたので、それだけで充分。テントを持たない者がその他の共同装備品を分担すれば、各自の装備重量を無駄なく軽くすることが出来る。そう思っていたのだが、他のメンバーが次から次へとテントを買ったから持って行くというので、もう放って置くことにした。荷物が重くなるのは自己責任である。あとは自分の体力と相談してくれ。これが冬場だったら、テント内で互いの体を密着させていないと寒くて堪らない。3人用のテントに一人で寝ていたら、朝には冷たーくなっているなんて可能性もあり得る。まあ、夏だからね…くっつくと暑苦しいし。
こんなところだろうか。たぶんまだ忘れているような気がするが、これ以上追記するつもりは無い。
さて、次回からはどのエピソードを書こうか。時系列通りに話を進めるつもりはないので、あの話が始まるかもしれない。