頂上は、ちょっとした広場になっていた。その周りを木々が取り囲んでいるため、眺望はほとんど無いと言っていい。丸川峠のススキ原以外、今日はずっとこの調子である。森林限界を超えていない山だから、まあこんなものなんだろう。
その頂上へぞろぞろと到着した一行は、感慨もそこそこに、昼食の準備を始めた。なにせ、標識以外見るものがないのである。あとは喰うしかないだろう。ザックの中からシングルバーナーを取り出し、まずはシャウエッセンを茹でる。竹上のシャウエッセン中毒がメンバー全員に伝染し、今や山行の定番となっている。テラもすっかり気に入ったようで、茹でているコッヘルの周りを落ち着き無く歩き回っている。江藤(隆)がシャウエッセン番をしている間、他のメンバーはそれぞれラーメンを作っている。斉藤は富士山頂で凍えながら日の出を待つ間、他のパーティーが食べていたサッポロ一番味噌ラーメンを妬ましく見つめていた。風に乗って鼻腔をつく味噌の香りが堪らない。この寒さの中、ラーメンの暖かさが羨ましい。背後から襲って収奪しようかと真剣に考えてしまうほど厳しい寒さだったのである。そんな経験から、彼はその味噌ラーメンを持ち込んでいた。更に温泉卵付きである。周囲に味噌スープの香りが漂い、食欲が増してくる。
「おお、ヨシ君。それいいなあ。旨そうだなあ」
「へへっ、いいでしょう!卵つきですよ!ちょー豪華です!」
休憩中に体が冷えることを見越して、皆一様に汁物を昼食に選択していたのだが、江藤(利)はカップ焼きそばを選択していた。
「スープ暖かそうだなあ。焼きそば失敗したー!すぐに冷たくなるよ…」
「そうでしょ。こういう状況では、暖かい汁物がうれしいんですよ!」
そもそも、湯切りの排水を山に垂れ流すというのはどうなの?と思うのだが、次回からはラーメンにしたらいいですよと斉藤が諭す。そんなやりとりをしていると、シャウエッセンが茹で上がった。江藤(隆)のコッヘルから取り出された茹でたてのソーセージから、芳しい湯気が立ち昇る。テラは興奮を抑えながらソーセージが盛られた皿に近づき、「食べてもいい?」と目で訴えてくる。飼い主である江藤(利)は、ちゃんと彼の為にドッグフードを持ってきているのであるが、ソーセージの誘惑には抗し難い様子である。だが、以前その誘惑に負けて、勝手に食べたソーセージがチョリソーだった経験が少しは身に染みているのであろう(その時、奇声を上げて咳き込んでいた)。一応食べる許可を求めてくる。
「テラ!こっちのなら食べてもいいぞ!」
江藤(利)が、空になった焼きそばの容器に冷ましたソーセージを入れてテラに差し出す。旨そうに平らげるテラに呼応して、他のメンバーも熱旨シャウエッセンを頬張る。ところで、シャウエッセン番をした者にはちょっとしたご褒美がある。茹で汁の使用権である。ソーセージから染み出した出汁が効いたスープを使ってラーメンを作る。これが最高に旨いのである。空腹を我慢して道具を提供した者だけに許される特権だ。
「旨い!最高っす!」
今回の茹で汁ゲッターである江藤(隆)は、人より遅めの昼食に舌鼓を打った。
昼食が終わり、食後のコーヒーを楽しんでいた時、奇跡的な光景を目にすることになった。誰かが落としたご飯粒を拾い上げた今田が、近くの木に止まっていた小鳥(たぶんシジュウカラ)に向けて差し出したのである。すると、その手のひらに小鳥が舞い降りたのだ。なんていうことだ!少女…もとい、おじさんの愛が奇跡を生んだのか?野生の鳥がこんな姿を見せるなんて、一同思いもよらなかった。
「うわっ、熊みたいなオッサンに鳥が止まった!」
「今田さん、すごいなあ!ハイジみたいや!」
「俺もやってみたい!鳥!こっちに来い!」
驚愕し、感嘆の声を上げる一同に向って、
「おい、熊とはなんだ!俺みたいに心が澄んでいる人間を、小鳥は見抜いているのだよ。お前らでは無理だな!」
と勝ち誇って今田が言い放つ。くやしいが、他の者には小鳥が止まらないのに、ご飯粒が無くても今田には止まるのだ。今は、頭に止まっている。
「どうなってるんだ?おかしいよ。いくらで買収したんですか?」
「そういうことを言うヤツには止まらないんだよ」
心優しき森の熊と、すっかりやさぐれた凡人達といった様相の一行は、イマイチ納得がいかないという表情を浮かべながら荷物を纏めて出発の準備に取り掛かる。テラはというと、お腹が満たされて元気が溢れんばかり。休憩はもういいから早く行こう、と皆を急かしてまわる。その勢いに背中を押されるようにして、一行は奇跡の地を後にした。
道端になぜか転がっていた土管。こんな山奥に、下水道や電線を埋設していたのであろうか?なんの名残なのか全く不明である。
「おお、土管だ。これで今夜のビバーグも問題なしだね!」
なんていう言葉が、誰からともなく漏れてくる。今年の夏の経験は、チームメンバーに数々のトラウマを植えつけているようだった。不本意にも完全なる野宿(つまり、寝袋一つで野外泊)を経験した今田、江藤(隆)、江藤(利)にとっては、“ビバーグ”という言葉が彼らのトラウマスイッチになっていた。
「なに!?絶対にビバーグなんかしないぞ!冗談じゃない…でも、この土管は雨風防げて快適そうだな」
あの経験から3ヶ月が経過し、「快適そうだ…」というコメントがようやく口をつくようになってきたが、負の記憶は彼らの心に深い傷となって残っている。軽妙な口調の中に「ガク、ブルッ」な声色が混ざっているようだった。
最初の1時間程は、ひたすら上りが続いた。下りを織り交ぜた峠道と違って、丸川峠を目指すこの行程は、確実に高度を稼いでいることが実感できて、心理的に楽だった。基本的には樹林に囲まれているので、視界はあまり良くない。木々の間から僅かに風景が覗ける程度である。その隙間から、遠く甲府の街並みが朝靄に霞んで見えた。近隣の山々も姿を見せる。そして、何かの工事をしているらしい重機の音が、けたたましく鳴り響く。たぶん、砂防ダムの建設をしているのであろう。日本の河川の上流域では、必ずといっていいほどこの構造物を施工しているようだ。いいかげん対処療法ではなく根治療法に転換しないのだろうか、この国の行政は。拝金主義者の多いこの国ではダメなんだろうな。
そんなことを考えながら登り続けていると、突然周囲の木々が途切れて、目の前にすすき原が広がった。徐々に傾斜が緩やかになっていき、やがて青い建物が視界に入ってきた。丸川峠に建つ山小屋である。
「おーい、みんなー!丸川峠についたぞー!」
斉藤は後ろを振り返って声を掛けた。すると、遠く霞んで富士山がその容姿を現していることに気がついた。
「やや、富士山だ。みんな、後ろに富士山が見えるよー!」
「おお、ほんとだ!フジヤマだー!」
「えっ、どこ、どこ?」
「薄いなー、写真撮れるかな?」
それまで塞がれていた視界が一気に開け、突如その雄大な姿を現した霊峰に、一同しばし圧倒されて呆然と見つめる。そんな中、一人鼻息が荒い男がいた。
「おのれぇー、待っていろ富士山!次こそは必ず剣ヶ峰まで登ってやるぞ!」
9月に富士山登頂を果たした斉藤であったが、遭難の危険性があったため(濃霧と吹雪に包まれた)、あと一歩のところで制覇を断念したのである。富士山にはまだ遣り残したことがある。そんな思いがつい口からこぼれたようだ。
「今度はこのメンバーで行こうか?楽しいぜ!高地障害
特に3,000mを超えてからは、気持ちよくなってくる」
「気持ちよくなるのはヨシ君位だろ?」
「富士山かー。楽しそうですね!高山病はイヤだけど」
「大丈夫!夏の富士山は、心が折れなければ誰でも登れるよ。でっかい丘だと思えばいい」
先ほどまで畏敬の念を込めてで見つめていた富士山を“でっかい丘”呼ばわりである。なんとも罰当たりな連中なのであった。
山小屋の傍にあるベンチで小休止を取ると、再び道を進み始める。山小屋からの道は急に傾斜がきつくなり、しばらくすすき原を歩くとまた樹林に覆われた。吹き抜ける風がだいぶ冷たい。これくらいの標高になると、ようやく辺りは晩秋の空気に包まれているようだ。高度が上がるに従って落葉広葉樹が減り、針葉樹林帯へと植生が変化を見せる。空気以外は、晩秋を実感することが出来なかった。
日はだいぶ高く昇っているようで、木々の影が短くなっている。陽光が覗く部分が方々にぽっかりと姿を見せ始め、影の部分はその密度を増している。はっきりとした陰影のコントラストが山道を照らし続けていた。
登り始めて5時間程経過した。高度も2,000mを超え、そろそろ頂上だなと実感する。やがて樹林がぽっかりと口を開け、青空が円形に姿を見せた。標高2,057m、大菩薩嶺山頂へ到着である。
公共の電波を使って、朝から『ち○こ』を連呼するダメ大人達は中央道をひた走り、順調に大月JCTを通過。程なくして勝沼へ到着した。晩秋の凛とした朝の空気を切りきながら、2台の車は甲州市を北上していく。途中、曲がるところを間違えたりしたのだが、ただちに江藤(隆)の車に搭載されているカーナビ(CD ROM!)のせいにして、個人へ非難が集中するのを回避する。チームを円滑に運営するためにはスケープゴートが欠かせない。だが、たまにチーム内部で罵り合っても深刻な事態に発展したことがないので、仲が良いというか何も考えていないというか、Mっ気が多い集団なのかもしれない。
コンビニで食料を買い込んだ後、一行は青梅街道を走り抜けて大菩薩峠登山口へ到着した。のそのそと車から這い出てくる彼らとは違い、テラは車のドアが開いたとたんに勢い良く飛び出した。やはり今回も山に着くと元気になった。普段の散歩とは明らかに場所も雰囲気も違うという状況が、彼のテンションをいやがおうでも上げているようだ。駐車スペースの周りをせっせとパトロールし、異常の有無を確かめる。何箇所かにマーキングをして、テラは自らの版図を広げていた。
一行が準備をしている最中、ダメ大人筆頭格にして隊長代理の斉藤は景気付けと称して“燃料”補給。
「これがないと、やってらんねえ
」
なんて言いながら、ジャックダニエルを体内に注入する。それを見て今田は、
「でた!アルコール中毒!ああ、もう、その匂いだけで酔っ払いそうだよ」
と渋い顔をする。あまり酒を好まない今田は、斉藤が燃料補給をする度に嫌な顔をするのだが、そんなことはお構いなしだ。斉藤は、周囲に何かを言われて行動を改めるようなタマではない。
「ドラゴンブレス発射ーっ!」
と叫びながら大きく息を吐いて、辺りにアルコール臭を撒き散らす。「やれやれ」といった表情で見つめる面々。いつも通りの出発準備光景である。
バカ騒ぎも一段落し、ようやく出発する。当初の予想より気温は高め。そのせいか、紅葉も始まったばかりといった感じである。駐車場からしばらくは落葉広葉樹林の中を緩やかに登っていく。木々の間から垣間見える山肌が、朝日に照らされて赤銅色に輝いて見える。いく層にも重なった落ち葉の絨毯を踏みしめながら、徐々に高度を上げていく。テラはいきいきとして、先頭を歩く。他の登山者が居るところでは一応リードを着けるが、それ以外の時は概ね野放しである。それで何処かに行ってしまったり、道を踏み外してしまうようなことはない。それどころか以前道に迷った時には積極的にルートを探してくれたし、自分が不安になった時には、リードを着けてくれと飼い主である江藤(利)に訴える。今は、3ヶ月振りの登山を体全体で楽しみながら、前へ行ったり、江藤(利)の元へ戻ったりと動き回っている。
20分程歩いたところで、厚着をしていた者達が服を脱ぎたいと言いはじめたので小休止を取る。暑さ寒さは個人主観だし、どういう服装が良いとかのアドバイスは事前に一切しなかった。ただ、朝晩は気温が10℃を下回るとだけ伝えてある。全員その情報を汲み取って装備品を持参する。子供じゃないんだから、一から十まで指示はしない。チームのそういった方針が漸く浸透してきたようで、各員衣服をレイヤーすることを覚えたようであった。この時期、行動中は汗ばむ位だが、どうしても歩き出しと休憩中が寒い。速乾生地のアンダーシャツと、フリース素材のインナーにウインドブレーカーという組み合わせは黄金パターンである。特に、脱いだ後もコンパクトにまとまって邪魔にならないウインドブレーカーは、長い時期使える便利物だ。
ところが、メンバーの多くがゴアテックスに代表される透湿防水生地を使用した高級ウエアを購入するなか、MA-1を毎度着てくる者がいる。竹上である。彼は夏場以外は、ほぼ同じ装いで参加する。ズボンに至ってはいつも一緒であった。「素人は経験と技術の不足を、最新の道具で補え」という井川隊長の言葉に逆行するようなラフスタイル。時にサンダルで山道を歩くといういい加減さが、彼の醍醐味である。他のメンバーから“近所のコンビニへ買い物に行くようだ”と表現されるのも無理からぬところか。そういった意見に対し竹上は、
「えー。でも、MA-1って最高っすよ。暖かいし、風防ぐし、楽チンなのが一番っすよ
」
まあ確かに、こまめなメンテナンスを要求される最新素材は楽チンではない。機能を維持するためにはそこそこお金を掛けなければならず、正直手間隙かかるのだ。MA-1だって本来の機能を維持するためにはそれなりにメンテナンスが必要であろうが、竹上自身がそれを自覚していない以上、メンテフリーなのである。他のメンバーだって、たまに防水スプレーを掛けておけば良いと思っているだろう。ともかく、彼のポリシーを貫く姿勢はなんだか力強く感じる。きっとこれからも、そのスタイルを押し通し続けるのであろう。
いそいそと脱いだ衣服を収納し、一行は再び晩秋の山路を歩き出した。